『教育激変』池上彰×佐藤勝 第三章 「アクティブ・ラーニングとエリート教育」 を読んで④
7 座学が軽視される理由
アクティブ・ラーニングでは、一斉講義式の授業だけでなく、能動的で対話な学びをと言っているので、座学を全く無くせと言っているわけではないように思われます。ところが、現場ではアクティブ・ラーニングへの拒否反応も強く、伝統的な座学を軽視していると思われがちなのです。
座学を軽視していると思われる理由としては、「座学は役に立たない」という思いがどこかにあるからではないかと私は思うのです。よく、高校までで習う内容が日常生活の何の役に立つのかといった議論が起こります。その中で、古文漢文は使わない、数学は特定の人しか使わない・・・といった、座学で学ぶ事柄がやり玉に挙がります。つまり、心の底に、「座学は役に立たない」という思いを、一部分に対して、誰しもが持っているということです。
今回の教育大改革をなそうとしている人たちにも、役に立たない座学ばかりやっていないで、自分で学びたいことを学んだ方が良いと考えている人がいるはずです。理興味関心を深めて、その分野で第一人者となることで生きていくことは理想的です。
だったら、一方的に教えられるのではなく、特定の教科の中で興味関心を持ったことについて深く学んでいけばいいのではないかと考えるというのは自然な流れでしょう。そのためには一人で考えるのではなく、他者とコミュニケーションをとって学んでいき、社会に出てから必要なスキルを身につけさせようと持って行くわけです。
学問としても、社会に出てからの知識としても、これらの能力は捨てがたいものです。だからこそ、アクティブ・ラーニングが必要なのだと強く推してくるわけです。こうして強く押し進めれば進めるほど、座学が軽視されていくように見えてしまうのです。
8 エリート教育化
アクティブ・ラーニングでは、社会に出てからの基礎力となるコミュニケーションを鍛えようという狙いもあります。ディベートなどを取り入れれば、ファシリテーターとしての能力も磨かれるため、人をまとめるリーダーとしての素質を養うことが出来ます。
こういう点からアクティブ・ラーニングは、その取り組みについてこられたものはリーダーになっていく、つまりエリート化していくのです。
座学で知識を得ることで精一杯の人と、知識は自然に吸収しさらなる学びへと発展させられる人との格差が大きくなってしまうのです。アクティブ・ラーニングはうまく機能すれば良いのですが、これまでの実戦や今回の指摘からして、座学を軽視して取り入れることになると、「エリート教育」となりかねない状況にあると言えるでしょう。
9 座学とアクティブ・ラーニングのバランス
座学とアクティブ・ラーニングは両輪のように運営されていかなければなりません。どちらか一方に偏るのではなく、二つがうまく機能しないといけないのです。
しかしながら、アクティブ・ラーニングを取り入れると新しい概念を学ぶというよりも、深く学ぶことになるので、教科書の範囲から離れる内容になることが多いです。座学では学べなかったことを学べたという風に言えば、ポジティブですが、座学で学ばなければならない時間が短くなるとも表現できるのです。
こういうことを考えるのは学習指導要領に示される習得範囲が広いままでは、アクティブ・ラーニングを取り入れる時間が非常に難しくなるという状況です。
高校現場では、習得すべき事柄が非常に多く、現在の授業でもカツカツの状態です。そこにアクティブ・ラーニングを取り入れるとなると・・・本来やらなければならない時間をどこかで削らないと厳しくなるのです。
つまり、二つのバランスを取るためには、何かを削ることが出来ないと現場は動きづらいのです。
10 トライアンドエラーでやっていく
アクティブ・ラーニングについては、現場は頑なに拒否せずに、とりあえずやってみることが大切だと思います。一方、文科省は現場に丸投げするのではなく、アクティブ・ラーニングを入れる余地が出るように、現状から何かを削る決断をしなければなりません。
近年の文科省は足し算が大好きです。やるべきことがどんどん増えています。この状態を変えていかないと、現場はますます疲弊してしまうでしょう。
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