『「学校朝食」の希望 「朝ごはんくらい家庭で…」と批判するなかれ』 を読んで
『「学校朝食」の希望 「朝ごはんくらい家庭で…」と批判するなかれ』 を読んで
最近、Twitterで「学校で朝ご飯」の話題がちらちら挙がってくるのをみかける。どう思うかのアンケートをしている人もいた。「食育」というワードがあるので、その関連かと思ったが、学校で朝ご飯を食べるというのはどういうことなのか、気になったので検索してみて。
目次
1 教員への負担は増えるのか?
いくつも記事があるが、私はこの記事が気になった。Wezzy(元記事に飛べます)で書かれていた内容だった。「批判するなかれ」が気になったのだ。批判と言えば、「朝から学校を開けると教員の負担が増えるだろう」ということだと思った。調理は担当できないとしても、学校の開場、使用教室の鍵の管理など、雑務が多い。そういう面だろうと思った。
しかし、記事を読むと、食事を作るのはボランティアの人、鍵の開場は警備の人で、基本的に教師は、参加希望者のアンケートをとるといったものだった。確かに負担としてはかなり軽度かもしれない。しかし、朝食を終えた生徒たちはどこへ行くのだろうか?通常の登校時間までそこで面倒を見てくれるのだろうか。
早い時間からご飯が終わって校内で活動されるということは、教師が面倒を見なければならない。グラウンドで遊んで怪我をしたら、誰が手当てするのか。ボランティアの方々がしてくれるのだろうか。
状況を考えて、必要なことを考え出したらきりが無い。企画自体は良いと思うが、実施するにはそれなりの負担のしわ寄せが来ることは間違いない。
記事を読む限りはかなりの効果があるように書かれている。朝食を欠食してくる児童が増えていて、それが学力や生育に影響を及ぼす。朝食を食べないとエネルギーにならないなどの影響があるのかもしれないが、「食事をおいしくいただく」という機会に恵まれないことも影響するのかもしれない。
しかし、この記事を読むと少し疑問が残る。この取り組みが実施されている地域は良いが、そうではない地域はどうするのだろうと思う。高校は義務教育ではないし、食堂が設置されているので、実施するのなら食堂をオープンすればいい。自分で学校を選んで受験できるのだから、実施している学校を選ぶことができる。
小中学校はどうか。最近は選択制を取り入れているところが増えつつあるが、現実は家から近いところに通うことになる。それは希望では無く、住んでいる地域での割り当てになっている。つまり、学校を選べないのに、朝食サービスがされる場所とされない場所があるということになってしまう。
2 小中学校のあり方は「平等」が原則では無かったか?
私立の小中学校に行く人は、学校の設備や提供されることがバラバラなのは構わないと思う。公共サービスを利用せずにお金を払って、より高度な教育を受けようとする人たちだからだ。
しかし、公立の小中学校は、全国均一の教育水準を維持するための施設では無かろうか。今回の取り組みは朝ご飯であり、教育内容とは関係ないのかもしれない。しかし、教育に与える影響があることは確かだろう。このボランティアがある学校とない学校で差が開いてしまえば、選択する家庭が増え、希望者が漏れることになってしまうのかもしれない。
では、このムーブメントが全国に広がりどこでも受けられるものにすればいいと言えるかもしれない。しかし、地方の人数の少ない小学校ではそんなことは不可能である。人的に不可能であり、文科省がお金を出しているわけでもなく、企業が推進しているわけでも内ので、なり手がいなければ成立しないだろう。
ということは、どう考えてもこのサービスは、場所によってバラバラになる。平等の原則は外れてしまうことになるだろう。
3 食事のあり方
食事のあり方というのはどういうものなのだろう。昼食は外に出ているので、それぞれ学校で食べているが、朝食と夕食は一家団欒で食べていたものだった。
ところが、働き方が変わり、社会のあり方が変わっていき、一家団欒で食事が取れない家庭が増えてきた。朝食は忙しさのあまり準備されなくなったり、ネグレクト的になり、用意されなかったりする家庭が増えた。夕食も親の仕事が終わってからの準備で遅くなるので、惣菜を買ってきたり、お金だけを渡されて、一人で食事をしたりする子どもも増えてきているのだろう。
そうなってくるくらいなら、学校に来て、みんなで食事をするのがいいことのように思われる。同級生同士でわいわいと食事をするあり方は非常に心温かく感じる。
4 何でも屋の学校?
学校は教育的施設としての役割を担い、基本的には学習面をサポートする場所であったはずだ。しかし、社会での振る舞い方なども学校で身につけられる機能が昔から続いている。社会に出て働くことが出来るための準備期間というような形だ。
ところが、最近はすごいスピードで学校の役割負担が増えてきている。「自転車の乗り方が危ない」「バスの列にきちんと並んでいない」「万引きしたから来てくれ」「店で迷惑行為をしているから来てくれ」など、学校がその子の生活の全ての責任を負うことになっている。本来ならば、家庭のしつけであり、呼ばれるのは保護者であるべきだ。しかし、保護者は仕事を理由に子どもを迎えに行けないとなると、学校に連絡が来る。学校の仕事ではないものの、放ってはおけないので、迎えに行くことになる。
そこに食事の面倒も見るということは、朝から夕方まで学校で過ごして、家には寝に帰るだけの構造になってしまう。家庭の役割はどこへいったのだろうか。ましてや、夕方からは塾に通うとなると、子どもはほとんど家にいない。これを仕事に置き換えれば働きづめのサラリーマンとなんら変わらない。(最近では働きづめの公立学校の先生とたとえるべきか)
学校という存在が本来の姿を取り戻すのか、時代の変化に伴って、変化を受け入れるのか、それを明確にしないと曖昧なまま、地域差の大きな公立学校になってしまうだろう。
さいごに
ということで、学校で朝食を取ることについて考えてみた。もはやここまで来ると学校のあり方を変えた方が良いでしょう。しかし、今の人員では不可能だ。朝食から昼過ぎまで働く人、昼前から夕方まで働く人と働く時間をずらして、学校に関わる人員を増やすべきでしょう。議員定数を増やす余裕があるのなら、それで2人くらい雇ってもらいたい。学校教育の行く末はどうなるのか、心配になってくる。