「偏差値にとらわれ過ぎ! 教育“後進国”日本の問題点を池上彰さん、増田ユリヤさんに聞いた。」を読んで




「偏差値にとらわれ過ぎ! 教育“後進国”日本の問題点を池上彰さん、増田ユリヤさんに聞いた。」を読んで

 

今回は上記の記事を元に考えを書いていく。2018年1月30日の記事なので、しばらく時が経っているが、現在でも変化が無いと思われるので取り上げる。(少し長いですが、ご了承ください)

 

偏差値にとらわれ過ぎ! 教育“後進国”日本の問題点を池上彰さん、増田ユリヤさんに聞いた。(ダヴィンチニュース)

 

1 「偏差値にとらわれ過ぎ!」に注目

この記事に興味引かれるのは「偏差値にとらわれ過ぎ!」という部分である。現在の日本の教育では偏差値が当たり前のように使われる。大手予備校の模試の偏差値で受験する大学を決めることは当たり前となっている。高校入試でも模試を受けて、内申点と合わせてどこを受験するか考えるくらいである。中学生くらいから偏差値はついて回ってくる。偏差値の高い方が、頭が良く、低い方が、頭が悪いとされている。学力試験の結果でしかないものの、全体的に偏差値が高いことを望む人が多い気がする。(世間的に意識的、無意識的にしろ、偏差値を気にする風潮がある)

 

偏差値は一つの目安でしか無いと思う。入試という競争システムの中で、「学力の高い人から順に合格とします」というルールがあるために、高さを調べておくことは大事だ。そのため、共通の試験を受けて、知識の多寡、応用力の有無を調べることは価値あることだと思う。入試のシステムの中だけにおいては、そう評価する。

偏差値脱却を唱える論は度々聞く。偏差値だけで人生が決まるわけでは無い。偏差値だけで人間性が分かるわけでは無い。色々と文句をつけることができる。これらの文句を言う人の視点は少しズレていると思う。偏差値がダメなわけではなく、偏差値を使うような学力主義が第一となっていることがおかしいと唱えるのなら分かる。

 

人生や人間性というのは社会を生きていく上で必要な力であり、それらは偏差値でははかれない。それは当然のことで、偏差値は「学力の高さ」を測るために存在するのであって、生きていくための力を測るためにあるわけではないからだ。偏差値に、「人生」や「人間性」を求めるのはズレているのである。

 

さて、偏差値について、基本的な考えを確認した上で、今回の記事の内容に触れていく。元記事の内容を元に書いていくので、元記事を一読されることをおすすめする。

 



2 「思考力を育てない教育は、国にとって都合が良かった!?」

日本の教育は、国によって規定されている。これは述べられないものの当たり前のことである。学習指導要領によって小中学校は全国で均一の質を保証し、高校は学力によってふるいを掛けて、内容のレベルは若干の変化があるとしても、最低限の水準を維持するシステムとして成り立っている。元記事でも触れられているが「義務教育としては優れている」と述べられている。その点は私も同意である。読み書きがある程度自由に出来る日本の教育システムは優れていると言える。

 

ところが、問題点がある。読み書きは出来るが、「思考力」はあまりついていないという点だ。日本の義務教育、または高校での教育の多くは、「理解力」に重きを置いている。思考力とは全ての教科で鍛える可能性があるものだが、多くは、すでに分かっていることを「理解」して、それを「覚える」ことに重きが置かれている。

 

私は高校現場を見ることが多いので、その中で感じるのは、「教えなければならないことが多い」ということだ。量をこなすために、ペースを上げて教え込むことになる。最近になって、自発的に学ぶことを推奨する「アクティブラーニング」がプッシュされていたが、これも知識があることを前提とするので、知識が無い状態ではなかなか取り入れづらく、浸透していない。

 

どうしても、受け身で学習することに優れてしまうので、自発的に考えることが疎かになってしまうのである。

 

そういう形態の授業であるからなのかは、はっきりとはしないが、日本の教育現場では政治の話は御法度である。教師が特定の政治家、政党を生徒に勧めると、生徒は自分の意思では無く、その政治家、政党を支援するようになるから禁止される。精神的に未発達な生徒を洗脳することになるからと教職課程で言われた(これは明記されたものでは無く、一解釈の問題である)

 

そういう発想がある点からして、日本の教育は洗脳的、つまり、教え込むことが前提となっているのだ。この状態では自ら考える能力が衰えてしまうのは仕方の無いことである。思考力を持たずに覚え込むことに優秀な生徒の方が、優位に事が運ぶ世界で育ち、そういう世界の人間を社会は求めて吸い上げていくのだ。

 

昔の日本は工場労働者を好んだ。勤勉に、等質的に働いてくれる人間を求めた。そのためには、教え込み、受容型の人間が好まれた。そのため、学校システムがそういう人間を生み出すものとなり、その中で上位に登ったものが有利な生活を手に入れられるシステムとして働いた。

 

これには、メリットもあった。身分制度が残っていた時代は、生まれた家柄によって将来が決まってしまった。しかし、学制が施行され、学校制度が成り立ってくると、そういうシステムの影響は薄くなった。自身の努力によって変えていくことができた。社会の変化とともに必要とされる人材になることが、世の中を生きていくのに一番良いシステムだった。だから、どこの学校に行くかが、重要だったのだ。

 

しかし時代は進んでいる。学校はその変化に対応できていない。戦後学校が授業者の裁量によって変化していたものを、制度で均質化を図ったために、制度そのものが変わらないと学校そのものが変化しなくなってしまったのだ。

 

これまで学校教育にもいくつかの変換点はあった。ゆとり教育を取り入れた時がそうだった。しかし、ゆとり教育は失敗だったとされ、以前の教育に戻そうという動きがある。一体何を持って失敗だったと言っているのだろうか。

 

学力が低下したから失敗だったのか。しかし、これは学力が下がったという資料を示すことが出来ない。学力調査でどこどこが出来ていないということは示せても、下がったという明確な資料は無い。(順位は参加国の増加とともに変動するので、資料的価値は低い)

 

新卒が会社を辞める率が高くなったからか。これは教育が悪かったのか、社会が変質したから発生している現象なのか、明確な区別は無い。むしろ、個性を尊重した教育とはマッチしていて、自分探しや自分で起業するタイプの人間が増えている気がする。(これも数値がないので正確なことは言えない)

 

では何が失敗だったのか。私は、以前よりも「思考力」が育ったことでは無いかと思う。ゆとり教育のおかげで、少しは考える授業を取り入れるようになった。そうすることで、「なぜ勉強しなければならないのか」「これは何の役に立つのか」といった、手元にあるものの存在意義を問う者が増えた。そうなることで、不登校や学校の勉強に適合しない人が増えたかもしれないが、そのことが失敗に直結することでは無いと私は思う。

 

しかし、元の記事でも述べられているように、「思考力」が育ってしまうと、政府は困ってしまうのだ。生活について考えるようになり、社会について考えるようになってしまうと、今の政権のあり方が覆ってしまうことが起きかねないからだ。

海外の高校生は政治に関心が高い。高校生や大学生がデモをする国がヨーロッパにはあると書かれている。それと同じことが日本で起きればどうなるのか。今やSNSで呼びかけは簡単に行うことができる。時間のある若者が集結して、時の政権にNoを突きつけて立ち上がった時、政府は窮地に立たされることになる。つまり、思考力を持たれてしまうと自分たちの立場が怪しくなってしまうのだ。

 

元の状態に戻すことが政府にとっては急務になり、あっという間に戻ってしまう。労働環境の訴えをいくら起こそうと、急務が優先されたのだ。

 



3 日本の偏差値教育の根本的な原因

元記事では、日本の偏差値教育の根本的な原因は、増田氏のコメントにあった。「平等を求めるから、論文での点数は不平等感がある」といった内容だ。さらには、教員の長時間労働が影響していると触れられていた。これには概ね賛成である。

 

論文の採点に対して、なぜ不平等感があるというのが当たり前になっていることに驚かされる。論文の採点基準を明らかにして、当てはめていけば良いのではないだろうか。作文が入試試験になっている自治体を探せば見つかる。その際、不平等に採点されていると思われているのだろうか。

 

詳しくは明かせないが、採点はかなり公平に行われている。内容点もあるが、基本的にはそれ以外の部分にも配点を多くし、複数採点の平均点を取る。大きくずれた点数であれば協議される。そういう仕組みで採点できれば不公平感がないのだろう。しかし、それでも、自信だけがあって技術が無い人が「採点者の好みによる採点だ!」と思い込めば、不平感は拭えない。

 

長時間労働が原因されるのは、採点する時間が充分に取れないことがあるのだろう。人数が増えれば増えるほど採点に時間はかかる。しかし、それは長時間労働が問題ではなく、採点に時間が割けないようなシステムで学校が運営されているからであろう。

 

学校の現場を見ると分かることだが、入試の採点には採点日を設けて、採点に専念する。しかし、定期テストの後は、採点する暇がない。定期テスト後に休みがあるわけでも無く、通常に授業が始まる。テスト日程の組み合わせが悪ければ、テスト最終日に試験をやって、翌日授業があることだってある。こんな状態で採点しろというシステムがおかしい。定期テスト後は2~3日の休みを設けて、テスト採点に専念させるべきだ。

 

しかし、テスト採点に専念できない原因の一つに、クラブ活動がある。テスト最終日からクラブ活動が解禁されて実施される。このとき、ペーパーテストの無い体育科の教師はクラブに時間を割けるが、教科で採点を抱えた方は余裕が無い。しかし、他のクラブがやっているのにうちのクラブがやらないのはおかしいという声が上がればやらざるを得ないのだ。

 

このような状況下にあれば、採点をいかに早く終わらせるかということを考えるようになってしまう。その場合、記述問題はなるべく少なく、記号問題を増やすしかない。採点を1日で終わらせるようになれば、何とか仕事が回るからだ。(1日に300枚ほど採点することになる)

 

受験業界が偏差値で決まるのであれば、定期テストも知識の量を問うていれば、そうそう離れた問題にならない。受験によく出る問題に固めた問題を作り、なおかつ採点しやすいテストが優秀となる。ゆとり教育の時代は余裕があったかもしれないが、現行のシステムではそのような余裕がないので、結果的にそのようなテストができあがるのだ。ある程度の水準以上の学校は偏差値主義へと偏りやすくなってしまうと考えられる。

 



4 勉強は偏差値のためでなく、人生を楽しむためにするもの

この部分に関してはかなり気楽だなと思わされる。「先生がまず自分の日常生活を大事にしていて、その経験を教育現場に還元すること」と述べられている。長時間労働や過重労働の件が触れられていながら、この発言はどうなのだろうと思う。

 

教員の経験を教育現場に還元できると、その刺激を受けた生徒がでるかもしれない。人によって異なる経験を見聞きすることで開ける道もあるだろう。しかし、今の世の中、教師に関わるニュースを見れば、わいせつで捕まった話か長時間労働で苦しんでいる姿である。そのようなニュースを見て、改めて学校の先生を見ると、確かにずっと学校にいる先生が思い浮かぶだろう。さらには、土日のクラブにも先生はいる。先生を一個人として考えた場合、どのような生活しているのかイメージしにくくなる。

 

先生業が「24hコンビニ」と揶揄されることがある。携帯電話が生まれてから、個人宛に連絡ができるようになってしまった。教師の電話には夜になっても保護者から電話が掛かってくるようになったのだ。24h教師であらねばならなくなってしまった。人生を楽しむところか、人生そのものが「教師」になってしまっている。もはや、仕事の世界で終わってしまい、外の世界に出て経験を積むことが出来ない。それなのに、「教師は常識を知らない」「教師の常識は非常識」と言われてしまう。好き好んで非常識になっていると言うよりも、外に出るタイミングを失って、どんどんそちらの方向に突っ走ってしまう。

 

教師の世界の常識が世間からずれていることは多々ある。伝統そのものが常識はずれなので、そういう行動が当たり前と思うようになってしまうと、常識から外れてしまうのだ。だから、教師の世界も変わる必要がある。そういう風が吹けば良いが、忙しさのあまりそういう風すら吹き込む隙間が無い。

 

だから、私は教師の世界に風を吹かしてみたいと思う。もちろん、どっぷりつかっているわけでは無いので、旋風は起こせないかもしれないが、いろいろな問題が起こって、どういう風に訴えられているのかを仕入れて、微風を巻き起こすことくらいはできるだろう。

 

今、私は教師の世界の外側で生活している。だけど、内側と完全に切れてしまったわけではない。色々と情報を仕入れ、考えを発信し、訴えかけることが出来る。

 

学校のシステムそのものはお国の力で変えてもらわないといけない。システムはルールに則って遂行されることで維持されるからだ。しかし、内部で色々と変化を起こせるのは教師である。教師が替われば学校が変わると言われるくらい力がある。その教師を動かすのは、同僚の教師であり、生徒であり、保護者である。

 

教師が人生を楽しみ、それを生徒に還元できる学校であれば非常に良いと思う。理想的だ。そのためには、学校のルールを根底から変えていく必要がある。世間から、社会から、どんどん風を送り込んで欲しい。固い壁も小さな亀裂が入り、微風が吹くかもしれない。その風が強くなれば、大きな風を起こすことが出来る。

 

色々考えがあり、私の考えに反対の人もいるだろう。だけど、私はあえて、考えを提示していきたい。指摘や反対をされれば、そのことで気づくこともある。賛同していただけた場合には励みになる。もしチャンスがあるのなら、小さな意見でも表に出していって欲しい。そうすれば、世間の風の一つになると思うからだ。ぜひとも、行動に移して、一緒に考えていこう。

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