現代文の勉強は必要なのか?




現代文の勉強は必要なのか?

 

ひかり
ひかり

現代文の勉強って必要ですか?今の言葉で書かれているんだから、勉強しなくても大丈夫なような気がします。

majime
マジマナ

そうだね。だとすると、社会も現代の日本語で記述されているから勉強しなくてもわかるはずだよね?なのにどうして覚えなきゃいけないの?

ひかり
ひかり

えっ、日本語で書かれているけれど、中身は歴史だから、覚えたり理解したりしないとできません。

majime
マジマナ

良いところに気づいたね。なのに、どうして、現代文は中身も同じだと思えるんだい?

ひかり
ひかり

あっ!?

majime
マジマナ

現代文は確かに現代の日本語で書かれているけれど、日常の使い方のまま書かれているとは限らないし、評論文においては、中身を理解しないとわからないことが書かれているはずだよね。

林太郎
林太郎

現代文って文系の話だけじゃなくて、科学技術とか理系の話も出てきますよね。

majime
マジマナ

その通り。評論文は文理問わず、様々なことが書かれているんだ。それを読み取るには、読み方の技術、知識など複合的な力が必要なんだよ。

ひかり
ひかり

そう言われればそうですね。では小説はどうなんですか?

majime
マジマナ

小説は、昭和初期の小説だと練習を積まないと読み取れないだろうし、現代小説でも、読んだ人の感想を聞くのではなくて、日本語の表現として読み取れる意味を聞かれるので、どうしても読み方の練習が必要になるんだ。

ひかり
ひかり

そうなんですね。読み方の練習が必要になるんですね。

majime
マジマナ

今回は現代文の勉強は必要なのかという視点からお話ししてみましょうか。

 

現代文の勉強は最も大切!

学校の勉強で最も大切なのは「国語」だと私は思っています。これは私が国語の先生だから思っているのではなくて、国語が一番大切だから国語の先生になろうと思ったのです。

 

高校生の頃、古典の授業がきっかけで高校の国語の先生になることを決めた(「管理者について」 3教える仕事に就きたいと思った高校生活)わけですが、それ以外にも小さな理由がいくつかあります。

 

私は高校生だった頃、いろいろな科目があることや大学の学部を調べたところ、さまざまな学部があることを知りました。高校で習うのなんて、極一部なんだなと思いました。その頃は勉強が少しはできるようになってきて楽しくなっていた頃でしたから、いろいろな知識を身につけたいと思っていました。

 

その頃に考えたことなのですが、いろいろな知識を吸収するために、「習う」という方法がありますが、この方法では時間がかかります。時間や場所を制限されずに行えるのが「読む」という行為です。つまり、読んで理解できれば、本屋さんにいけばある程度のことは知ることができるのです。

 

もちろん、大学で研究するようなレベルになってくれば、英語の論文を読みこなせないといけないかもしれませんが、日常生活の中で、他の人よりも物知りで、ちょっと役立てるようになるには、書籍から得られる情報で充分です。そのためには、「日本語で読む」能力を高めなければなりません

 

別に日本語ではなく、英語の能力を高めて良いのでは?と思われるかもしれませんが、日本に住んでいる以上、安価で豊富な知識を手に入れられるチャンスは日本語に軍配が上がります。

 

そこで私は日本語の力を上げることが、この目的を達成できる一番の方法だと考えました。そして、高校生の頃は新書を勧められました。評論文でも取り扱われ、各分野の専門家が書いているものです。これを読み取る能力を高められればいいのかと思いました。

 

それは結果的に現代文の勉強に繋がりました。評論文を読み解いていく力です。そして、その力は他の教科の勉強にも役立ちます問題集や参考書の解説は日本語で書かれています。解説を読み解くにも日本語がいるのです。現代文の勉強は他の教科の成績にも影響することに気づきました。

 

これは教える立場にたってからも、よく感じることです。数学の先生にも言われたことがあります。「国語ができないと数学もなかなか伸びないね」と言われました。

 

高校の評論文は、少し説明の仕方が難しいですが、中学生の頃は「説明文」と呼ばれていたものです。これが分からないと、高校の授業で説明されている言葉を充分に理解できていないことになります。そのため、他の授業でも影響が出てしまうのです。

 

少なくとも、評論文の勉強をしっかりとして、理解できるようにしておかないと様々なところで影響を及ぼす重要な科目になるのです。

 

林太郎
林太郎

現代文だけで収まらないのが現代文の恐ろしさか・・・・・・英語がプッシュされるけど、足元の現代文を見直すことも大切なんだな。

 

 



現代文の成績は日頃の行いの結果?

現代文の成績は日頃の行いの結果という人がいます。これは裏を返せば、日常生活で言葉をきちんと使っていれば、現代文はできるということになります。つまり、現代文の勉強は要らないと言っていることと同じです。

 

私はこのことは間違っていると思います。中学生の説明文であれば、言えなくもないのですが、高校レベルの評論文になると、そうはいきません。

 

まず評論文の書き方は、日常生活ではしません。相手を説得するための方法ですから、日常生活が常にそういう状態になることはないでしょう。あるとしたら、自分の意見を押し付けてばかりの嫌な奴です。

 

また、論法も普段の話し方ではしません。昔の言い方をすれば、評論文は「書き言葉」なのです。日常語とは違うわけですね。もし、評論文のやり方で話していると、多分、友達がいなくなると思ってください。

 

だから、日頃の行いというのは間違っているのです。

 

日頃の行いではなくて、「日頃の勉強の結果」というのなら正しいと思います。評論文は特定の状況下における書き言葉ですから、適切なトレーニングが必要なのです。それも、本格化するのは高校生になってからです

 

ここで、もし、日頃の行いだというのであれば、高校生になってから勉強して、取り戻せるのかって話になりますよね。小学生から他人との言葉のやりとりが発生したとして、高校3年生までで、12年間使っていることになります。それを受験期のたった一年で取り戻すのは不可能になってしまいます。

 

しかし、現実には現代文の得点は数ヶ月の適切なトレーニングで飛躍的に伸びます。これはそれだけ最近に習ったもので、適切なトレーニングを受けていなかっただけということ表しています。

 

だから、評論文の勉強は最も大切で、なおかつ、適切にトレーニングをすべきものだと考えています。

 

ひかり
ひかり

現代文の勉強は適切なトレーニングが必要なんですね。

 

 



さいごに

皆さんは、「現代文はセンスだ」という言葉を聞いたことがあるかもしれません。確かにセンスが影響するのは事実です。しかし、それはどの教科においても言えることで、現代文に限ったことではありません。

 

現代文に何かといちゃもんをつけている大人は、自分の思う勉強法で成果が出なかったから文句を言っているのだと思います。そして、それが「勉強しなくていい」という免罪符みたいになっているので、若者に受けます。

 

私はこれを「逃げ」と呼んでいます。勉強しても成果が出ないのを教科のせいにしているだけです。本来なら「方法が正しかったのか」を検証すべきですよね。

 

私の元で現代文の勉強した生徒は飛躍的にその力を伸ばしていきました。個別指導の時は、一人一人の状況に合わせて行ったので、偏差値45くらいから60超えはよくあることでした。学校現場で教えた時も、偏差値45だったのが55に上がりました。集団の偏差値を上げることは大変ですが、結果的に適切にトレーニングをするかどうかに掛かっています。

 

現代文で伸び悩んでいる人は適切なトレーニングを積める環境を作りましょう。今後、私がやったことを紹介していこうと思いますが、誰でも当てはまる状況とは言いがたいので、方向性を知って取り組んで行けるようになってくださいね。

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