『土佐日記』「亡児」




『土佐日記』「亡児」

 

 

使用時期

1年生の定番教材です。助動詞を学習しながら習う場合もありますが、紀行文という文体の文章の特性から、表現や内容について深く学ぶ場合が多いです。

 

『土佐日記』の作者は、紀貫之です。彼は男ですが、冒頭部分にあるように女性のふりをして書いています。これを「女性仮託」と言います。

 

このような方法をとったのは、当時の男性は漢文体で文章を書き、かな文字で記すのは女性のすることでした。かな日記という作品の特性上、女性が書いたように設定したということです。

 

しかし、本文を読めば分かりますが、明らかに紀貫之視点で描写されていることも多く、作者の顔が登場する場面を楽しむことも出来ます。

 



本文

 二十七日。大津より浦戸をさして漕ぎ出づ。かくあるうちに、京にて生まれたりし女子、国にてにはかに失せにしかば、このごろの出で立ちいそぎを見れど、何ごとも言はず、京へ帰るに女子のなきのみぞ、悲しび恋ふる。ある人々もえ堪へず。この間に、ある人の書きて出だせる歌、

都へと思ふをものの悲しきは帰らぬ人のあればなりけり

また、あるときには、

あるものと忘れつつなほなき人をいづらと問ふぞ悲しかりける

 

十一日。暁に船を出だして、室津を追ふ。人みなまだ寝たれば、海のありやうも見えず。ただ月を見てぞ、西東をば知りける。かかる間に、みな、夜明けて、手洗ひ、例のことどもして、昼になりぬ。今し、羽根といふ所に来ぬ。わかき童、この所の名を聞きて、「羽根といふ所は、鳥の羽のやうにやある。」と言ふ。まだをさなき童の言なれば、人々笑ふときに、ありける女童なむ、この歌をよめる。

まことにて名に聞くところ羽ならば飛ぶがごとくに都へもがな

とぞ言へる。男も女も、いかでとく京へもがなと思ふ心あれば、この歌、よしとにはあらねど、げにと思ひて、人々忘れず。この羽根といふ所問ふ童のついでにぞ、また昔へ人を思ひ出でて、いづれの時にか忘るる。今日はまして、母の悲しがらるることは。下りしときの人の数足らねば、古歌に「数は足らでぞ帰るべらなる」といふことを思ひ出でて、人のよめる、

世の中に思ひやれども子を恋ふる思ひにまさる思ひなきかな

と言ひつつなむ。

 



現代語訳

 

(十二月)二十七日。大津から浦戸をめざして漕ぎ出す。こうした中でとくに、赴任前に都で生まれていた女の子が、土佐の国で急に亡くなってしまったので、このところの出発の準備のさまを見るが、何も言わず、都へ帰るというのに女の子がいないことばかりを、悲しく思い恋い慕っている。そこにいる人々も(その様子を見ると気の毒で)堪えられない。それで、ある人が書いて差し出した歌は、

都へと……都へと思うのに、(うれしいはずが逆に)何か悲しいのは、帰らない人があるからだったのだよ。

また、あるときには、

あるものと……まだ生きているものと、死んだことを忘れてしまっては、亡くなった人のことを「どこにいるのだい。」と、やはり人に尋ねてしまうのは、なんとも悲しいことだよ。

(一月)十一日。明け方に船を出して、室津に向かう。人々はみなまだ寝ているので、海面のありさまも見えない。ただ月を見て、西や東の方角を知った。そうこうしているうちに、人々はみな、夜が明けて、手を洗い、毎朝決まって行うことをして、昼になった。ちょうど今、羽根という所にさしかかった。小さい子供が、この土地の名前を聞いて、「羽根という所は、鳥の羽のようなの。」と言う。まだ幼い子供の言葉なので、人々が笑うときに、あのいつかの女の子が、この歌をよんだ。

まことにて……もしそれが本当であって、羽根という名と聞くこの土地が鳥の羽であるなら、飛ぶように都へ帰りたいものだわ。

と言った。男も女も、「何とかして早く都へ帰りたいなあ。」と思う気持ちがあるので、この歌が、特にうまいというわけではないけれども、なるほどと思って、人々はこの歌を忘れない。この羽根という所を尋ねた子どもを見るにつけても、また亡くなった女の子のことを思い出して、いつの日に忘れることがあろうか、いや、忘れるはずはないのだ。今日はいつにもまして、母親が悲しがられることといったら格別である。都から土佐へ下ったときの人々の数が足りないので、古歌に「数は足らでぞ帰るべらなる」という言葉を思い出して、ある人がよんだ歌は、

世の中に……いったいこの世の中で、いろいろ思いやってみても、子どもを恋しく思う思いにまさる思いはないよなあ。

と言いながら船旅を続けるのであった。

 



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